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ここしばらく忙しない日々が...必ずしも忙しい(いそがしい)のではなく...続いていたので、ろくにものを考えたり書いたり読んだりということができないでいたが、今晩は頓に種々の些事の煩いを猶予されたような気分で、不思議に落ち着いている。落ち着いている、というのは、まさに今という時間に落ち着いている、というような具合の感覚で、明朝やそれ以降への準備期間としてさしあたり与えられた時間、今朝と明朝の間の限られた時間としてではなく、ただ率直に今をその通りに経験しているように感じられる。
労働における典型的な態度とは落ち着かないことであって、次の瞬間のための今を生きる態度であると思う。つまり、刻まれて局限された時間の中に常に身を置き、有限の今という期間を切り上げるための思考様式...解決的、達成的、処方的、典型的思考にしたがって行動することが労働の経験の核心部分であるように思う。またはあるときには、ある全体を分節し、有用性、利便性、理解可能性にしたがって再配列することがそうである。労働とはその意味で、終わらせるための思考によって終わらない連鎖を作り出す行程である。そのように労働を理解するのであれば、似たり寄ったりの娯楽をとっかえひっかえして余暇を潰すような行為も労働の範疇を出るものではない。それどころか、詩境の極みに達したということでもない限り、多かれ少なかれ生きるということは労働となろう。いわゆる労働とは、(その内実がいくらかそうであるように)生の一つの部分を分離させ、極端に肥大・発達、および単純化させたものであるかもしれない。
労働にはいつもどこか、それのためならずそれをする、”甲のための乙”という一面があり、それは時間の点に限らない。ほかにも例えば、労働に従事するということは、キーボードを叩いたり慇懃な調子で人に接したりというような生活とは無関係な行為群を、労働という総体として把握し、各人の仕方で生活に接続することであり、いわば生活のための非生活か、ないし非生活の生活化である。そしてこれもやはり、生きることにおいては異質で特殊な営みではなく、生きること全体にいくらかその趣があるような活動である。
労働と休暇、労働と趣味、労働と生活、などというように、甲と乙を立てる考えがそもそも労働的なのだと論うのは性急だろうか。労働に生活を明け渡さないためのさしあたっての術策は、労働をヒステリックに拒んで家の閾から追放することではなく、労働の内側から労働の非実体性を看破し、生活との連続性を有した形で再生・再組織することであるように思う。
蛇足ながら、再生、これにしか価値はない。そう断ずる根拠はいくつか挙げられるだろうが、ひとまず次の一点で十分だろうと思う。すなわち、それが死を必要とするからである。
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先月に受診した健康診断の結果が送られてきた。大方はAだったが、その中に一項目だけ、D2との評価が下されている項目があった。至って健康体の、というより健康なことのほかには何も取り柄のない私は文字通りの二度見をしたのだが、その項目というのが脂質代謝で、曰く「コレステロール値が低い」とのことだった。
常に多かれ少なかれ債務の心配が思考の一隅を占める生活の中で、意識的にも無意識的にも食事が炭水化物偏重のものとなっている自覚はあった。近頃の食生活はと言うと、朝はトーストで、昼は焼きそばか焼きうどん、夕飯は作り置きのカレー、シチュー、寄せ鍋の類の主菜にうどん、蒸したじゃがいも、もち米などを食べている。副菜がないので、非主食の割り込む余地が昼の麺の具材と夕飯の主菜しかない。であるから、タンパク質や野菜は少なくとも丸一日摂らないということはないように意識していたが、脂質は盲点だった。
この診断を受けて早速、スーパーでツナ缶、卵、牛乳を購入し、昼の麺の具のたんぱく質枠を当面ツナ缶に固定、かつ卵も積極的に入れるようにした。また、やはり主に栄養上の懸念から以前より飲んでいるプロテインについても、粉を溶かしている牛乳をひとまず成分無調整のものに変えた。
そんなに命が惜しいですか、という声が、「健康のため」なんて情けない、そうまでして生きる甲斐のある人生ですか、という声が、ツナ缶をフライパンに開ける背後から、成分無調整牛乳に溶かしたプロテインを飲む背後から、聞こえてくる。
命が、健康が惜しいか。以前であれば、そうではない、と強情を張るところであったが、もはや私が命を惜しんでいることは否みがたい。そうではない、と答えようとしていたところの精神がそう言うのは、そうとでも言わなければ、精神は肉体の卑しい従属物、延長程度のものに堕していくように思われたからである。肉体より発して肉体の外へ超え出るのでなければ、その意識の働きはおよそ精神と呼ぶに値しない。それは必ずしも肉体を否定することを意味しないが、しかし肉体へ服従せず、またこれに反逆もしない第三の道というのがどのように定位されるのか、その答えは未だ得られない。
肉体、労働、娯楽、家族、経済、社会、人生...ある主体に対して包摂的に、支配的に、定義的に働くあらゆる対象に、もとい茶番に、いかに抗しかつ従うかが常に問題となる。さしあたり少なくとも言えるのは、支配的なそのものをもし破壊するつもりでいるならば、きっぱり袂を分かちその外側に立たなければならないが、それを超える、ないし克服するつもりでいるならば、その内側からアプローチしていかなければならないだろう、ということだ。
ツナ缶をフライパンに開けたとき、その油で照った表面を見て、なんとなくそういう季節なのだと思った。服従とも面従腹背とも、自己欺瞞とも違う生活のあり方がもしありうるなら、生活の節々に幾度となく現れるこういった宙づりの物事と時間とは、間違いなくありうる未知の生活への序奏を奏でているように思われる。しかしこの予感は、どこまで追っても予感であるような、そんな気もする。