駆け出しドクター

 

 

駐車場から飛び出してくるお医者様。

この手の飛び出し注意喚起看板に描かれるのは大体いつも少年であるが、何か尋常でない事態に直面している(が如き表情をした)成年男性だって、確かに車道や歩道に飛び出してき得る。しかし、医者をして白衣のまま駆け出させしめる緊急事態とは一体何なのであろうか。ある種の動物は大地震などの天変地異の直前に不自然な挙動を見せることがあるというが、それと同様に、この看板も見ている我々をなんとなく不安にさせる。

 

「駆け出し」という言葉があるように、「走る」という行為と未熟さは無関係ではない。行為自体が未熟さを連想させるというよりか、その落ち着きの無さ、慌ただしさがそうするのであろう。成熟とは、古来より落ち着いてあることだった。静寂によって安寧を得るべしと、洋の東西を問わず数多の哲学者や宗教家が説いてきた。

しかし改めて彼を見てみると、確かに走ってはいるが、その表情は端的に言って「無」である。少しの動揺も興奮もそこには見られない。

「走る」という行為は未熟を連想させると書いたが、それだけを連想させるのではない。「走る」という行為は、人間に可能な行為の中でも最もシンプルな行為の一つであり、それ故にそれが属するカテゴリーを代表しうる行為である。カテゴリーの例として、急いでする行為一般、積極的に取り組む行為一般があるだろう。

もしこちらの考えに立つのであれば、無表情・無感動で疾走する彼の姿は、叙事詩『バガヴァット・ギーター』の教えるところの「打算抜きにただ行為せよ」を思わせる。街角から不意に”神の歌”が飛び出してくるのには、教父アウグスティヌスが隣家の子供の歌声を聞いて手に取ったパウロの書簡を読んで回心したように、道行く人がインド哲学へ引き摺りこまれてしまわないか心配である。

 

「無表情で道路に飛び出す医者」とはなかなか滑稽だが、よくよく見ていくと滑稽であるというより寧ろ狂気的と言った方が的確なようにも思える。

これがもし、タンクトップにジーンズのフレディ・マーキュリーみたいな男性が飛び出す看板であれば、「なるほど、That why they call you Mr.Fahrenheit なんだな」とこちらで得心され、それはただ滑稽なだけで済む。ところが、これが白衣を纏って八事の落ち着いた街並みに同調した男性が同じように飛び出してくるとなると話は変わってくる。

自邸へ朝顔を見に来た秀吉をたった一輪の朝顔で迎えた千利休の逸話もそうだが、人を揺さぶり、そして刺すのは何をおいても、研ぎ澄まされた一撃なのである。ピラミッドに貫かれて死ぬ人間はいないが、アイスピックで刺されて死ぬ人間はそれなりにいる。この看板はその意味で、それが飛び出すフレディ・マーキュリー看板だった場合よりも遙かに反逆的ではないだろうか。