趣味論序説

(この記事について)

・メモをメモとして書くと、本当にメモで終わってしまう。私はメモにメモ以上のことを期待している。というのも、メモをわざわざ認めるときというのは大概、概念・名詞の整理によってそれらを統べる構造を可視化したいときだからだ。

 

・誰にも読ませるつもりのないこの文章を私はお前に公開する。「お前に」は「誰かに」であり、「誰かに」は「全ての人に」であり、「全ての人に」は「誰にも」である。それは結局「私に」だ。0人称というマトリックス

 

・私の趣味論の企ては、とりもなおさず人生論の企てである。全能感と虚無感に引き裂かれた惨めな人間が、全能感も無能感も手放せなくて、結果的にその惨めさの中で生きていくしかなくなったとき、趣味論は人生論に挑戦しなくてはならない。

 

(趣味と興味の一般論)

・趣味の定義的なもの。趣味とは興味の探究のことである。興味とは、ものおよびことの面白がる余地のことである。翻って趣味とは、世界の面白がり方の探究である。

 

・ものやことは多面的である。あるいは多面的に理解されうる。文脈によって意味を変えるし、自ずから文脈を展開しもする。面白がるとは、文脈を掘り当てることであるかもしれない。それは、そのもの/ことに変質を迫るということでもあり、反射的に自身に変容を促すことでもある。面白がり行為一般については、個別のもの/ことに即してもっと考えていきたい。

 

・面白がるという動詞、あるいは何らかの動詞を中心に、私と何かという2つの名詞を変容させる。趣味とは変容の技法である。新しいものに到達するための技法であり、新しい新しさを見つけ出す技法である。新しさを更新していくことによって、無限の旅路へ乗り出す。しかしそれは必ずしも無限の彷徨ではなく、無限を駆動している機関を暴き出すことで一瞬間のうちに無限を取り尽くしてしまうことがきっと可能である。

 

・面白いものと楽しいものとの峻別。既にある面白いもの/ことを目的としてするあらゆる行為は面白がり行為ではなく楽しみ行為である。何かを面白がるとき、人は必ず予期せぬ新しい境地に足を踏み入れる。それは絶対に目的とならない。

 

・無目的に行為を行うのは非常に難しい。我々は目的にできない目的物に到達するために、仮の目的を持たなくてはならない。本当に尊いものは副産物としてしか得られない。

 

・趣味は必ずしも必要ではないが、それゆえに必要である。人生には必要でないものが必要なのだ。必要を真剣に論じだすと、話はおかしい方向へ逸れていく。それは当然だ。人生がそもそも、生の自己否定を契機として存在しているように思える。生きる、生き残ることを、あくまで仮の目的としてしまうことに人生の奥義がある。

 

・創造性。創造の必要性。創造とは、他者の創造である。自分のうちから自分ならざるものを生み出すことができるという直感や信念なくして生きることは、少なくとも私には極めて難儀である。「クリエイター」などいない。万物がクリエイティブであるか、万物がただ物質と記号の算数的で無機質なやりとりをするだけの退屈な機械であるかの二択だ。

 

・本質的な無限は、無と等質である。

 

・創造的な行為には思うに3つの象限がある。概念・論理・技術である。概念を論理によって構造化し、技術によって実現/現実化する。素材、関係、形態かもしれない。

 

・文化的であるとは、そこから面白さをくみ出すために様式が整えられているということだと思う。つまり趣味的ということだ。

 

(加筆予定)