駅直結の葬儀屋

 

 

名古屋市営地下鉄吹上駅の1番出口から徒歩0分の葬儀屋。

そもそも駅からの距離云々以前に、駅前交差点にデカ葬儀屋が建っているということが既に奇怪に思われる。本山や砂田橋ならマックスバリュがある場所だし、八事ならイオンが、御器所ならスタバが、今池なら郵便局がある場所だ。まかり間違っても葬儀屋がある場所ではない。

 

確かに最近は葬儀屋が着実に増えていて、コンビニの跡地に葬儀屋が建つなんてこともザラだ。葬儀屋もコンビニエンスを追求していかなければ、自社の葬式を執り行うことになりかねないのかもしれない。

しかしそういう実際的な点はさておいて、葬場と駅という聖俗の両極端とも言うべき二つの場所がほぼゼロ距離で接しているということの奇妙さ、滑稽さは指摘されなければならないだろう。

聖俗という表現はあまり正確ではない気がしてきたが、考えれば駅と葬場とは諸々の点で対照的な場所である。

まず静と動。葬場では死者も参列者も概ね一つの場所に留まり、静粛のうちに葬儀が執り行われる。一方で駅では、人々は常に移動中であり、というか移動をしに駅まで来ているのであり、ホームでは電車が轟音を響かせながら丸一日往来を繰り返す。

そして、動静にも通じるが、結果と過程という違いもある。駅は基本的に移動の目的地ではなく、十中八九駅近辺の別の場所へ行くために駅は利用される。しかし、「何かのついでに葬儀屋に寄る」などという外食するのと同じ頻度で知己が物故している疫病神野郎や、「葬儀屋を通って別の場所に行く」などという不道徳の権化みたいな野郎はまずいない。

あとは、一回性と複数性の違いもそうだ。時刻表を見れば分かるように、電車が駅を発着するというイベントは、実際には乗せている人間や電車の車体、運転のペース配分などが毎回異なっているが、どのイベントも他のイベントと同等で同様のものと、要するに同じものと認識されている。ある人にとって、自分が参列する特定の葬儀が別の葬儀と「大体同じもの」ではあり得ないのとは対照的にだ。

 

しかし一方で、両者には類似点もある。駅も葬儀屋も、そこを発ったらもうそこではないような、土地や現世の”限界”なのだ。両者を架橋するこの観点の接着力は存外強力なように思われる。

以上に挙げた相違点や共通点はかなりテキトーなもので、いくらでも論駁の余地があるが、少なくともこのような観点から分析を試みること自体は当を得ているのではないかと私は考えているし、おそらくもっと総合的な観点から両者はある共通点に回収されていくのではないかとも考えている。とにかく、「大体このへんが異様な感じの源泉の在処だろう」と思考を放り捨てたところで、この文章を終わろうと思う。