ドアストッパー石

 

ドアストッパーとして利用されている石。

このオブジェクトが目を惹く理由は、何よりまず、小ぎれいでかしこまった空間の感じと全然調和していないからである。飼い慣らされていない、野生の石だ。それが石であるというところにも思うことがある。石と聞くと「石頭」という表現があるように頑固で硬直したイメージが連想されるが、それはまるで人間によって馴致されたしなやかでしとやかな空間との対照を成すようである。

 

猿人時代以来の人間の友「石」は、その歴史の分だけ人間にとって多義的な存在として表象する。

まず、今述べたように、石は硬くて曲がらない。気品ある落ち着いた講義室を演出しようとする壁や床の要請を撥ね付ける。

そして、石はありふれていて無価値だ。人間によって馴致されたインテリア類は、言い換えれば人間の尺度において価値を付与されているのだが、これを拒むこの石は必然的に無価値なるものと見做されざるをえない。この写真、この空間内において、石は一様に広がる価値の中に穿たれた”穴”(=欠如)となっている。

 

なのだが、この石はこの大学に不満を持つ誰かが投石を行った結果ここにあるのではなく、ドアストッパーとして使うべくだれかが持ち込んだのだ。そしてその限りで、この石は価値を獲得している。

石は確かに何もしていない。何もせずただそこにあるだけで、ドアを受け止めるドアストッパーとしての役割を果たしてしまう。石の徹底的な”怠惰さ”を逆手にとって、空間に取り込んでしまったのだ。

この石を”穴”と捉えるか”突起”と捉えるかは全面的にこちらに委ねられている。すなわち、「飼い慣らされた石」と取るか、「反抗的なインテリア雑貨」と取るかである。

 

ちなみに、写真の講義室はあるミッション系大学のそれであるが、石と聞くとユダヤ教というか中東の伝統的な処刑方法の石打ちの刑が連想される。この石にユダヤ教、保守的で、過去に取り残されつつある宗教を重ねて見るとき、また違った趣が生じる。