ブログレガシー1219
お見逸れしました、私。
どうせ誰も読まないブログだから、キーボードに穴が開くまで猥言を打ち込もうかとも思いましたが...
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公開
ドアストッパー石
ドアストッパーとして利用されている石。
このオブジェクトが目を惹く理由は、何よりまず、小ぎれいでかしこまった空間の感じと全然調和していないからである。飼い慣らされていない、野生の石だ。それが石であるというところにも思うことがある。石と聞くと「石頭」という表現があるように頑固で硬直したイメージが連想されるが、それはまるで人間によって馴致されたしなやかでしとやかな空間との対照を成すようである。
猿人時代以来の人間の友「石」は、その歴史の分だけ人間にとって多義的な存在として表象する。
まず、今述べたように、石は硬くて曲がらない。気品ある落ち着いた講義室を演出しようとする壁や床の要請を撥ね付ける。
そして、石はありふれていて無価値だ。人間によって馴致されたインテリア類は、言い換えれば人間の尺度において価値を付与されているのだが、これを拒むこの石は必然的に無価値なるものと見做されざるをえない。この写真、この空間内において、石は一様に広がる価値の中に穿たれた”穴”(=欠如)となっている。
なのだが、この石はこの大学に不満を持つ誰かが投石を行った結果ここにあるのではなく、ドアストッパーとして使うべくだれかが持ち込んだのだ。そしてその限りで、この石は価値を獲得している。
石は確かに何もしていない。何もせずただそこにあるだけで、ドアを受け止めるドアストッパーとしての役割を果たしてしまう。石の徹底的な”怠惰さ”を逆手にとって、空間に取り込んでしまったのだ。
この石を”穴”と捉えるか”突起”と捉えるかは全面的にこちらに委ねられている。すなわち、「飼い慣らされた石」と取るか、「反抗的なインテリア雑貨」と取るかである。
ちなみに、写真の講義室はあるミッション系大学のそれであるが、石と聞くとユダヤ教というか中東の伝統的な処刑方法の石打ちの刑が連想される。この石にユダヤ教、保守的で、過去に取り残されつつある宗教を重ねて見るとき、また違った趣が生じる。
駅直結の葬儀屋
そもそも駅からの距離云々以前に、駅前交差点にデカ葬儀屋が建っているということが既に奇怪に思われる。本山や砂田橋ならマックスバリュがある場所だし、八事ならイオンが、御器所ならスタバが、今池なら郵便局がある場所だ。まかり間違っても葬儀屋がある場所ではない。
確かに最近は葬儀屋が着実に増えていて、コンビニの跡地に葬儀屋が建つなんてこともザラだ。葬儀屋もコンビニエンスを追求していかなければ、自社の葬式を執り行うことになりかねないのかもしれない。
しかしそういう実際的な点はさておいて、葬場と駅という聖俗の両極端とも言うべき二つの場所がほぼゼロ距離で接しているということの奇妙さ、滑稽さは指摘されなければならないだろう。
聖俗という表現はあまり正確ではない気がしてきたが、考えれば駅と葬場とは諸々の点で対照的な場所である。
まず静と動。葬場では死者も参列者も概ね一つの場所に留まり、静粛のうちに葬儀が執り行われる。一方で駅では、人々は常に移動中であり、というか移動をしに駅まで来ているのであり、ホームでは電車が轟音を響かせながら丸一日往来を繰り返す。
そして、動静にも通じるが、結果と過程という違いもある。駅は基本的に移動の目的地ではなく、十中八九駅近辺の別の場所へ行くために駅は利用される。しかし、「何かのついでに葬儀屋に寄る」などという外食するのと同じ頻度で知己が物故している疫病神野郎や、「葬儀屋を通って別の場所に行く」などという不道徳の権化みたいな野郎はまずいない。
あとは、一回性と複数性の違いもそうだ。時刻表を見れば分かるように、電車が駅を発着するというイベントは、実際には乗せている人間や電車の車体、運転のペース配分などが毎回異なっているが、どのイベントも他のイベントと同等で同様のものと、要するに同じものと認識されている。ある人にとって、自分が参列する特定の葬儀が別の葬儀と「大体同じもの」ではあり得ないのとは対照的にだ。
しかし一方で、両者には類似点もある。駅も葬儀屋も、そこを発ったらもうそこではないような、土地や現世の”限界”なのだ。両者を架橋するこの観点の接着力は存外強力なように思われる。
以上に挙げた相違点や共通点はかなりテキトーなもので、いくらでも論駁の余地があるが、少なくともこのような観点から分析を試みること自体は当を得ているのではないかと私は考えているし、おそらくもっと総合的な観点から両者はある共通点に回収されていくのではないかとも考えている。とにかく、「大体このへんが異様な感じの源泉の在処だろう」と思考を放り捨てたところで、この文章を終わろうと思う。
駆け出しドクター
駐車場から飛び出してくるお医者様。
この手の飛び出し注意喚起看板に描かれるのは大体いつも少年であるが、何か尋常でない事態に直面している(が如き表情をした)成年男性だって、確かに車道や歩道に飛び出してき得る。しかし、医者をして白衣のまま駆け出させしめる緊急事態とは一体何なのであろうか。ある種の動物は大地震などの天変地異の直前に不自然な挙動を見せることがあるというが、それと同様に、この看板も見ている我々をなんとなく不安にさせる。
「駆け出し」という言葉があるように、「走る」という行為と未熟さは無関係ではない。行為自体が未熟さを連想させるというよりか、その落ち着きの無さ、慌ただしさがそうするのであろう。成熟とは、古来より落ち着いてあることだった。静寂によって安寧を得るべしと、洋の東西を問わず数多の哲学者や宗教家が説いてきた。
しかし改めて彼を見てみると、確かに走ってはいるが、その表情は端的に言って「無」である。少しの動揺も興奮もそこには見られない。
「走る」という行為は未熟を連想させると書いたが、それだけを連想させるのではない。「走る」という行為は、人間に可能な行為の中でも最もシンプルな行為の一つであり、それ故にそれが属するカテゴリーを代表しうる行為である。カテゴリーの例として、急いでする行為一般、積極的に取り組む行為一般があるだろう。
もしこちらの考えに立つのであれば、無表情・無感動で疾走する彼の姿は、叙事詩『バガヴァット・ギーター』の教えるところの「打算抜きにただ行為せよ」を思わせる。街角から不意に”神の歌”が飛び出してくるのには、教父アウグスティヌスが隣家の子供の歌声を聞いて手に取ったパウロの書簡を読んで回心したように、道行く人がインド哲学へ引き摺りこまれてしまわないか心配である。
「無表情で道路に飛び出す医者」とはなかなか滑稽だが、よくよく見ていくと滑稽であるというより寧ろ狂気的と言った方が的確なようにも思える。
これがもし、タンクトップにジーンズのフレディ・マーキュリーみたいな男性が飛び出す看板であれば、「なるほど、That why they call you Mr.Fahrenheit なんだな」とこちらで得心され、それはただ滑稽なだけで済む。ところが、これが白衣を纏って八事の落ち着いた街並みに同調した男性が同じように飛び出してくるとなると話は変わってくる。
自邸へ朝顔を見に来た秀吉をたった一輪の朝顔で迎えた千利休の逸話もそうだが、人を揺さぶり、そして刺すのは何をおいても、研ぎ澄まされた一撃なのである。ピラミッドに貫かれて死ぬ人間はいないが、アイスピックで刺されて死ぬ人間はそれなりにいる。この看板はその意味で、それが飛び出すフレディ・マーキュリー看板だった場合よりも遙かに反逆的ではないだろうか。
ドゥワァ! センナナヒャク!!
名鉄名古屋本線・金山駅の3番ホームに、中部国際空港行きの特急・名鉄1700系が進入してくる様子を撮った12秒間の動画。
人々の装いから察するに、季節は冬頃であると思われる。また時刻は、電光掲示板を見ると13時35分とある。季節と時刻からすると、このとき太陽は大体南南西の方角から照りつけることになる。それは名鉄名古屋駅から南東の方向に進んでやってきたこの電車の進行方向とはほぼ直角を成す向きであり、西から南へカーブしたホームのやや東よりにいると思われる撮影者の位置からだと、進入してくる電車は動画のように、その正面と太陽光を浴びて輝く右側面が映る。
動画を通して、名鉄に特有らしい印象的なミュージックホーンが鳴り響いているが、よく聴いてみると、冒頭のところで空笛が一度短く鳴らされていることが分かる。この空笛が鳴るが早いか、電車待ちの人混みの間を縫ってドゥワァ!の青年がにわかに駆け出してくる。また同時に、画面右奥の黒いコートの女性が彼に奇異の視線を向ける。無論それを顧みることなく、青年は真剣な面持ちで弓なりのホームを軽快に走り、2,3秒のうちに画面中央、電車の正面に躍り出る。ここで先ほどの男女にやや遅れて、坊主頭の学生がドゥワァ!の青年の方を見やる(制服からして、名経大市邨の学生と思われる)。そして、途端に破顔、笑みを浮かべて、興奮した様子で「ドゥワァ! センナナヒャク!!」と口走る。
「ドゥワァ!」の瞬間に弾けた満面の笑みの印象が去ったときにはもう、青年はホームを駆け抜けて画面の外へ掃けてしまっている。さっきの女性ももう彼を見ていない。画面に残されているのは、電車の眩しい前照灯と、青年を目で追う坊主頭の学生である。学生はなおもしばらく青年の方へ視線を向けるが、その手前にマスクの男性が進み出てきたためか電車のほうへ向き直り、またこの男性と重なってその姿も隠されてしまう。ここでちょうどミュージックホーンが鳴り止んで、動画は終わる。
この動画の一つの見方、つまりこの動画に見いだすことの出来る一つの構造に、「日常」と「逸脱」、もっと言えば「日常からの逸脱」と「逸脱の日常への回収」があるように思う。
日常とは、駅のホームで立って待つ人々を、規則的に運行する電車が迎えに来る風景である。逸脱とは、到着する電車に先駆けて走り出す青年である。
日常とは、引退間近の1700系電車を正面から撮影することである。逸脱とは、ドゥワァ!の青年が瞬間的に電車の前照灯をかすめながら正面へ躍り出て、画面をジャックすることである。
日常とは、ミュージックホーンのメロディーであり、駅の構内放送である。逸脱とは、「ドゥワァ! センナナヒャク!!」である。
日常とは、学校帰りの学生であり、ガムとイヤホンである。逸脱とは、スマホの他に何も持たない、鉄道オタクの青年である。
日常とは、青年から目をそらす女性であり、女性の後ろ姿である。逸脱とは、青年を目で追う学生であり、学生の顔であり、その視線の先にいた、あるいはいるはずの青年である。また日常とは、学生をカメラから隠してしまったマスクの男性であり、すぐそこまで来ている1700系であり、「ドゥワァ! センナナヒャク!!」の不在である。
空笛が鳴るとともに青年が人混みの中から現われ、カメラの方へ走ってくる。何かの予感を与えながら。もしこのときに黒いコートの女性の視線に気づいていたなら、その視線がそのまま、この予感がなんであるか見破らんとする我々の視線に一致するだろう。
そして、予感が成就する。不満足に。というのも、「ドゥワァ! センナナヒャク!!」の声を聞き届けたときには、そしてこの逸脱に興味を惹かれ始めたときには、もうドゥワァ!の青年は画面にいない。触れられるうちは見えず、見えるようになるともう触れられない。予感はいつのまにか余韻と化してしまっている。
この時点で既に、ドゥワァ!の逸脱の緊張感を辛うじて伝えるものは学生の視線、学生の顔のみとなっている。だから画面の前の我々は、逸脱の残り香を追う過程でこの学生に自己を投影し、彼とほとんど一体になる。そして我々であるところの彼がマスクの男性に遮られ、また男性越しに彼が電車の方へ向き直っているのが見えると、我々もまた電車の方を見る。
そもそもこの映像は、まさに駅に停まろうとしているこの1700系を撮るために開始されたものである。そもそも学生含めホームにいる人々は皆、この電車に乗って各々の生活の場へ行ったり帰ったりするためにここに集結しているのである。電車が、ドゥワァ!の青年および学生の不在に相対化されて浮き上がった電車の前照灯が、「ドゥワァ! センナナヒャク!!」の声の不在に相対化されて浮き上がったミュージックホーンおよび構内アナウンスが、(画面の前の我々にしてみれば架空の)日常への回帰を促す。特に前照灯は、我々の意識を聴覚から視覚へ強力に回帰させる。我々は、梯子を踏み外して初めて地面を知るのである。